論理と共感:ロバート・キャンベルさんの祝辞(東京大学平成30年入学式)を読んで

  • by

8月下旬となり、子供たちの学校では新年度が始まりました。長女は中学生になりました。新しい先生に新しいお友達、まだ慣れないながらも、とりあえず今のところは順調な滑り出しのようです。

そんななか、たまたま、日本文学者のロバート・キャンベルさんが4月にあった東京大学の入学式で述べた祝辞を目にしました。非常に示唆に富む文章で、思わず何度も繰り返し読んでしまいました。久しぶりに人の書いた文章を読んで鳥肌が立つ思いがしたので、紹介したいと思います。当初は一部を抜粋して引用させていただこうかと思っていたのですが、全体を読まないと理解が難しいこと、また数年後に東京大学のHPでは見れなくなる可能性があることから、記事の最後に全文を引用させていただくことにしました。

教養とは何か。キャンベルさんは、「頭とからだを使って、自分が好奇心をもって向かおうとしている目標について他者に説明する言葉を磨くこと」、そして「ファクトを切り出して、論理と共感というきわどいバランスをその都度に繰り出すスキルを身に付けること」だといいます。入学式の祝辞なので、キャンベルさんはこれらが「大学でできること」なのだと言っていますが、個人的には、大学に限らず、人が生まれてから死ぬまでの間、常に磨き続けていかなければならないスキルなのではという気がしています。

      

ところで最近、critical thinkingが大切だということがあちこちで言われるようになりました。critical thinkingは日本では「批判的思考」と訳されるのが一般的なのですが、私が長い間、この「批判的思考」という訳に、何とも言えないモヤモヤ感を抱えていました。モヤモヤの正体が何なのか、今まで深く考えたことはなかったのですが、キャンベルさんの祝辞を読んで分かりました。critical thinkingとは、事実を論理的に分析する(真実か否かの検証を含む)とともに、他者の立場から多角的に物事を見て思考することをいい、いわば「論理と共感」という2つの異なるエッセンスを内包するものなのです。「批判的」という言葉には相手を否定するかのようなやや攻撃的なニュアンスが感じ取れますが、そうではないんですよね。critical thinkingのctirisizeの対象は、他者というより自己になるのではないかと。だから、そのまま「批判的」と直訳すると、モヤモヤした違和感が残るのだろうと思います。

「論理と共感」、この2つはいわば相反するものであり、どうバランスをとっていくのか、難しい部分があります。バランスがとれているか常に自分自身も省みながら、子供と一緒にそのバランスの在り方について考えていければと思っています。

キャンベルさんの祝辞には、ほかにも、異文化理解の難しさや、「共感」の在り方など、鋭い指摘が含まれています。こんな祝辞が入学式に聞けるとは、東大生は幸せですね。東大の新入生のみなさんがこの祝辞の素晴らしさを理解できていればいいなと思います。

      

平成30年度東京大学学部入学式 祝辞東京大学HPより)

いくつものハードルを越え、この大学を選び、そして多くの家族や友人の祝福を受けながら、今日ここに集まった新入生の皆さまに、心からのお祝いを申し上げたいと思います。わたくしは去年の3月まで、およそ多くの皆さまが生まれたであろう2000年から17年間、駒場の教養学部で日本の古典文学を教えていた者です。

わたくしはアメリカで育ち、皆さまとほぼ同年齢で日本語に出会い、その日本語を使ってどう生き、何を生業とするかを真剣に考えた末、日本文学の研究者になることを選びました。20代の後半に来日、幸いめざしていた学問の道筋と与えられた環境が一致したので、今日このように、一度も母語が通じ合える国に戻らず、豊富な文献資料と優秀な仲間に囲まれ、励まされ、その資料が書かれたのと同じ日本語を通してすくすくと充実した日々を送ることができました。

しかし歳月は、いいことばかりを運んでくれるわけではありません。山や川よりも人の心、とくに心に測り知れず大きな力を及ぼす言葉のボーダーを越え、人と共に学び、働き、愛し合うことの難しさについて、気づかされることも多くありました。

わたくしが今も解決できずにいる2つの問いがあります。そこで今日、皆さまと一緒にそれらのことについて考えてみたいと思っています。

ひとつ目。人が他者を理解しようとボーダーを越えた時、その行為が寄り添うこととして喜ばれるのか、それとも行き過ぎた文化への立ち入り、英語でいうculturalappropriationに当たる無神経な模倣や真似として否定されるのか、その線引きが実はわかりにくい。

世界の、とくに欧米の情勢からすると、皆さまが成人になろうとする現在においては、友愛精神だけでボーダーを軽々と越え、文化を共有するなどという甘い夢は描けません。出会うその瞬間から、相手に関する確かな知識と感性が問われる時代になりました。

お金があり、文化へのアクセスも湯水のごとく自由になる社会の一部が、それまで抑えられてきた人々の領域に土足で立ち入る。アメリカの例でいうと、非白人系や少数の人々たちの歴史やライフスタイルを、そうではない人たちが利用し自分のものであるかのように資本として使うことに対する嫌悪や警戒心は、年々、募っているようにみえます。

つい先日、わたくしが生まれたニューヨークのブルックリン美術館では、アフリカ芸術部門の学芸員として31歳になるアメリカの白人女性を採用しました。美術史家である彼女の資格に問題はありませんが、ニューヨーク市にある活動家団体は、白人であるということでこの人事に反対しています。さらに自分たちのものでもない文化に越境して入り込み、ということは言い換えれば黒人などを排除してきた欧米における美術史という学問領域も、「美術館」という制度そのものも、legacies ofoppression「抑圧の遺産」と見なして、さしあたりこの女性の即刻解雇を要求しています。

わたくしの知人で、長くドイツに住み活動を続けていらっしゃる多和田(たわだ)葉子(ようこ)さんという作家がいます。去年東京で会い、2つの文化を自在に行き来する彼女に対し、これらのことをどう思っているか問うてみました。すると、興味深い言葉が返ってきました。

多和田さんは数年前、福島の原発事故に取材して作品を書きました。その際、当事者ではない人が本当には理解できないことだから書くべきではない、他人の苦しみを資本に小説を書き、金儲けするのはけしからんことだと思う人たちがいることを初めて知ったと言う。福島の人からみれば東京で生まれた彼女は確かに外部の人ではあるが、原発事故を題材に小説を書いているドイツ人たちから見ればまさに内部の人間に見えます。多和田さんいわく、「自分以外の存在になりきってみる、それができなければ文学は成り立ちません」、とまで言い切っていました。

日本で日本文学の研究機関を率いるわたくし自身はというと、先ほど述べたアフリカ芸術が専門の白人女性学芸員に近いものがあるのかもしれません。わたくしはしかし、何千人もの日本人学生に、彼らの文化的主柱である古の文学を教えてきました。街に出かけては日本の民族衣装である着物を着流しで歩き回っていても誰も文句を言いません。むしろ、「日本人以上に、日本を知っている」というシュールに聞こえるようなほめ言葉を向けられます。真似ることを文化創出の土台にまで昇華させた日本人だ、と考えれば最高の賛辞に聞こえますけれど、わたくしにはしっくり来ません。

アメリカで暮らすアフリカが専門の研究者と、日本にいる日本が専門の研究者との違いについて、それぞれが生きる地域の歴史に即して、その背景を丁寧にほどいていく必要はあると思います。しかし、まず当事者であるわたくしにとって大事なのは、挨拶代わりに「日本人以上だ」などと褒めてくれる人の好意を受け入れながら、その気持ちに添わず、むしろ批判する能力を持つことだと考えます。「いえ、そんなことありません」と答えるわたくしは、謙遜というよりも「「日本人」って誰?」、「「日本人以上」とは論理的でないよね?」という冷淡な抗いを込めていますが、同時にわたくしを前にした相手の、その時のおそらく偽らざる気持ちを想像すると、その気持ちに共感を寄せざるを得ません。そもそもわたくしは他者への好奇心から今のような存在になったのですけれども、文脈と場所によってわたくしのような存在は人を傷つけることもあり、新たな優れた表現や学び、あるいは学術的知見を生み出すきっかけになるのかもしれません。これから何かを学びながら、大きく変わるに違いない皆さまも、これから、他者と渡り合っていく一人ひとりのバランスを図らなければなりません。このバランスを支えるのは、他でもない、「教養」だと思います。

いま、共感といいましたが、わたくしがもう一つ釈然としない、ふたつ目の問いは、この共感に関すること。それは、共感や思いやりと言った誰もが否定し得ない衝動のような気持ちが具体的にどういう条件のもとで、人の幸せに繋がるのか、繋がらないのか、ということです。

教養とは、自分の経験から思いも寄らない他者の言葉にふれたり、前時代に起きたことがらに対して思いを馳せ、知ったりすることで自らを変える力を蓄えることだと考えます。むかし日本語で「おもいやる」と書くのに、「想像」、英語の「イマジン」を意味する2つの漢字を当てていました。自分ではない他者の痛みに思いをやる- 「やる」は 「派遣する」の 「遣」と書きます - つまり送り込むことによって、自分のことをふり返る、内省する、前に進む能力を培います。ひっくるめていうと共感、英語で言うエンパシーになります。

アメリカのオバマ大統領はかつて、世界の紛争はエンパシーの不足から起きると演説のなかで指摘しました。イスラエルとパレスチナの問題は「お互いが相手の靴を履いて地上に立った時に初めて解決されます」(when those on each side “learn to stand in each other’s shoes”)、そういう名言を残しました。

しかし人の履き物を穿いて地上を歩き続けるのは中々しんどいことで、大抵の人はできません。日本は外から見ると平和で安定した社会に見えますが、中には多くの亀裂があり、先日の新聞には、子供を持つ親の過半数が、所得格差による学習への機会がでこぼこになることを「仕方が無い」と答えたという調査結果を発表しています。朝ごはんも食べられないまま学校へ通う子供が大勢いるという現実も、日本の「見えない貧困」、可視化されない不公平を裏打ちしています。

ここに、徳川時代の江戸で出版された一冊の本があります。本草学者が書いたもので、タイトルは『豊年教種』。天保4年、1833年だから江戸市民が大飢饉に直面する最中に書かれ、流通した一種のサバイバルマニュアルです。読者に対して、一番困っている人たちにどう接触すればいいかということを説いています。「飢えたる人に粥を施すにハ、尤も恭しく謹(ん)で与へ」るべしと。お粥を作って、近所で飢餓に苦しんでいる人に食べさせる。その時重要なのは、普段より丁寧に手渡しをするということ。

「必々不遜(ぞんざい)にして人を恥(はずか)しむべからず。其(その)人の窮するも、全く天時の変によりて然らしむるなり」、と。あなたから茶碗を受け取った人が困っているのは、気候や天災のせいであって、明日は我が身かもしれません。中国の『礼記』にあるように乞食が戸口に現れたとき「乞食だ、これを食え」と言われれば、その乞食もプライドがあれば「お前の飯なんか食わない」と言って黙って餓死してしまうかもしれない、だから相手の立場をよくよく汲みなさい、と忠告します。「此ごとくなれバ施(す)にも不遜(ぞんざい)にてハ陰徳にハならず、却て徳をそこなふ也」と。

人にいいことをしようとして、かえって自分の信用を落とし、幸福をすり減らしてしまう危険性を、この本の著者は有事の際にこそリアリティ溢れるディテールで述べ切っています。急いで多くのものをいっぺんに食べさせてはいけない、飢餓者に熱いものを渡してはいけない、というように、具体的で検証可能なファクトに基づき、他者への共感を呼びかけています。

今わたくしたちの目の前に広がる虚報、いわゆるフェーク・ニュースも、「共感」を煽ることでエビデンスとは無縁の主張をかかげ、その主張だけが人々を幸福に導き得るという危険な環境に我々を追い込もうとしています。世界中に広がり、現に、生き死にに関わる争いの引き金にもなっています。

さて、大学でできること。頭とからだを使って、自分が好奇心をもって向かおうとしている目標について他者に説明する言葉を磨くこと。ファクトを切り出して、論理と共感というきわどいバランスをその都度に繰り出すスキルを身に付けることに尽きると思います。これが本来の教養であると、私は考えます。

平成30年(2018年)4月12日
国文学研究資料館長 ロバート キャンベル

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA